2014年1月14日火曜日

11 <第1章 「記憶」のなかの原石> 原爆の図


画家、丸木位里・丸木俊ご夫妻の共同制作として著名な作品「原爆の図」。
一九五〇年の作品である「幽霊」「火」「水」から一九八二年の「長崎」に至るまで、全15部から成る大作だ。「水俣の図」「沖縄戦の図」でも広く知られている。
広島は夫である位里さんの郷里。当時東京に住んでおられた位里さんは、原爆投下の三日後に広島に入り、地獄と化した惨状を目の当たりにされたという。妻の俊さんも一週間後には広島に。そして五年後、水墨画家の位里さん、油彩画家の俊さんの共作による「原爆の図」が発表される。

1年の3分の1を過ごしていた高野山での記憶のなかで、小学生の頃から私の脳裏に焼き付いているもののひとつが「原爆の図」だ。

祖父が住職をしていた成福院の敷地に、摩尼宝塔(まにほうとう)という名前の塔が建っている。太平洋戦争の戦没者や犠牲者の慰霊ならびに供養と、平和を願う気持ちから祖父が昭和40年に建立した。

実はこの塔の中に、丸木美術館の公式ホームページにも記録として掲載されていない「原爆の図」がある。それは「火」と「水」と題された二つの作品だが、丸木美術館に収蔵されている同名の作品とは、構図も違うまったく別の作品なのだ。
数年前まで塔内で展示されていたが、照明などによる痛みが目立ち始め、現在は写真家・長坂嘉光氏により撮影され、500年~1000年は変化しないといわれている写真プリント技法(プラチナプリント)を用いて保存。実物はあまり光が直接当たらない場所に現在は移動されれている。

 生前の祖母の話によれば、祖父が摩尼宝塔の建立にあたって丸木ご夫妻に作品の依頼をしたという。お二人は成福院に泊まり込み、三ヶ月かけてその二つの作品を完成させ、奉納寄贈されたというのが経緯だ。
 小学校3年生、9歳からずっと、私は高野山にある2つの「原爆の図」を見続けてきたことになる。

 「火」は炎に包まれる母親であろう女性のそばに、正面を向いてすわる女の赤ん坊。周りには少女などが描かれている。炎に焼かれて皆全裸だ。
墨で描かれた人物と、朱で表された炎が強烈なコントラストで、悲しみと怒りが満ちあふれた作品だ。子供の目から見ても、そのメッセージはとても強かった。
子どもを炎から守ろうとするかのような女性は、ふくよかな身体で、そのふくよかさが悲しみと無念さをいっそう際だたせる。

「水」は対照的に、静けさの中からメッセージが伝わってくる。
黒く焼けて折り重なるように倒れている人々。その傍らに、片方の手で幼い妹とおぼしき幼児の手を握り、もう片方の手で水の入ったバケツを持って立ちつくす少女が印象的に描かれている。むろん着衣は無い。
水を求めていのち尽きた人々のそばで、まだ息のある人たちに少しでも水を分け与えようとしていたのだろうか。

 この2つの作品は、戦争の恐ろしさ、愚かさ、平和の尊さを私に無言で語り続けてきた。この「原爆の図」以外にも、戦地で倒れた人たちの遺品や、銃弾が貫通した跡の残る朽ちた鉄兜なども摩尼宝塔には展示されていて、人類が同じ過ちを繰り返さないようにという祖父の思いと願いが込められた空間だった。
 
 祖父は上田天瑞(てんずい)という。
 昭和16年に、南方仏教の研究と修行のために、タイの寺院に入った。戦争の勃発により日本軍がタイに進駐し、陸軍の命令でビルマ(現在のミャンマー)に行き、日本語学校の校長をしていた。
ビルマ戦線は激戦の地でもあり、祖父は悲惨な状況のまっただ中にいた。その後ビルマ僧としても修行し、ビルマ仏教会から贈られた仏像と経典を携え、昭和19年に奇跡的に生還する。
 すでに制海権も握られていたので、日本に向かう船団はことごとく潜水艦により撃沈されたが、祖父が乗っていた船だけ無事に日本に辿り着けたらしい。

終戦後、高野山大学の教授となり学長をしていた時期もあるが、私が生まれた昭和31年に政府派遣の遺骨収集団に宗教者代表として参加。再びビルマの地を訪れる。そしていくつもの戦跡で遺骨収集と巡礼供養を行い帰国。
当時の厚生省から遺品の一部と共に遺骨の分骨を受け、それらは後に摩尼宝塔に収められることとなる。

祖父が見たはずの凄惨な戦場。
そこで亡くなっていった各国の人たちへの苦渋の思い。
宗教者としてのあるべき姿を、祖父なりに実践していたのだと思う。

祖父自身が書き残した文章の中に
「偽りの多い世の中だが、宗教者として日々供養を行うことは、真実でありたい」とある。
その言葉通り、死の床に伏せるまで、頑ななまでに毎日欠かさず供養の経をあげていた。そんな祖父を、私は子供の頃から尊敬していた。
ただなぜかプロレスと肉の脂身が大好きだった。
痩せていたし、脂ぎった人でもなかったのに、そのギャップは何だったのだろうと、今でも不思議に思うことがある。

祖父が丸木夫妻に依頼した「原爆の図」。
そして毎日休むことなく、慰霊と供養の祈りを捧げていた祖父の姿。
それは作曲家となった私にとって、大切な何かをいつも心に送り続けている。

私がレクイエム・プロジェクトを沖縄・長崎・広島でも行っていることの必然性が、そこにある。

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